司会という〝芸”

 過日、都内某所のイベントで司会者・Mさんとご一緒する機会がございました。

現場でお目にかかる機会は多いのですが、この時は全編拝見する時間があり、氏のプロフェッショナルな司会の技を堪能しました。

 Mさんの司会の特徴は、ひと言で申せば「楽曲への理解」でありましょう。

 歌詞の内容をよく吟味なさり、キーワードをからめた歌手とのやり取り、話芸で演目を紹介してゆく様は実に心地よいものでありました。

更に、歌手という人種は往々にして、自身のステージでは「あれも演りたいこれも演りたい」と欲張ってしまいがちです。ともすれば方向性の散漫なプログラムになってしまうリスクもありえます。音楽性の異なるゲストを呼んでいたり、スピーチだけのゲストがいたりすれば尚更です。

 そこをMさんは、ご時世、季節、何より歌手自身のバイオグラフィーを盛り込んで上手く構成し、オープニングからアンコールまでの全体に統一感、完結性を持たせるMCを展開しておられた。

 ステージは歌や演奏、音響や照明に加えて良いMCも含めて一つの作品として成立するのだな、と改めて納得です。否、含めてどころか、ステージ全体を梶取る、言わば「矢面に立つディレクター」とすら言えるかもしれない。

 Mさんの受け売りですが、演歌や歌謡曲のMCは、シンガーソングライターのそれとは別物と考えるべきでしょう。

演歌を「演じる歌」だと堀内孝雄さんもおっしゃいましたが、とくに『瞼の母』や『俵星玄蕃』などは音楽であるのと同時に芝居そのもの、と言っていい。

 こういう作品を「演ずる」時は、歌手の地と曲の登場人物が混じっては良くないんじゃないか。

曲を紹介して、イントロが鳴ると同時に、歌手がステージの上で歌手本人から忠太郎や玄蕃へと変化する瞬間を見せちゃっちゃぁ、場合によってはひどく興ざめでしょう。演出方法はいろいろあるでしょうが、MCがドラマのナレーターばりに「解説」をするのが一番いいのでしょう。

神田松之丞さんの人気で、世間では講談の再評価ブームが起こっているようです。司会という「芸能」にも、もっと注目が集まってもいいのではないでしょうか。

(髙村)

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